知って得する建物の豆知識 風呂の歴史 温泉は僧侶が広めた

我が国で入浴が習慣的に行われるようになったのは8世紀頃です。仏教の伝来とともに入浴という習慣が輸入されましたが、それまでの縄文、弥生時代の長い間、身体は川や湖水、泉等で洗うのが一般的でした。また、風呂ではありませんが、井戸水を利用した行水という行為は広く行われていました。一説によると風呂は、サウナのような蒸し風呂や岩風呂が大陸から伝播して、弥生後期には蒸し風呂や岩風呂を使っていたという説もあります。蒸し風呂のことを「むろ」と呼びこれが訛って「風呂」に転化したという説の根拠が「蒸し風呂」説です。
蒸し風呂は「発汗入浴」とも言い、日本ではかなり広い範囲に広まっていました。瀬戸内海地方では海女が冷えた身体を温めるために、海岸の岩穴で流木や海藻を燃やして採暖する、岩風呂が使われていました。岩穴で火を燃やして十分に岩に蓄熱させたのち、海水で濡らしたムシロを持ち込み蒸気と熱気で蒸される方式です。この方法は瀬戸内から四国、山陰まで海岸線に沿った地方で広く使われたようです。
山口県では重源上人が東大寺再建のために木材を求めた佐和川沿岸で、伐採の人夫たちの疲労回復のため、岩風呂を設えました。燃料は伐採した樹木の樹皮や枝、小径木などでした。また、沿岸地方の薬師堂では堂守が蒸し風呂を炊いて、入浴料を取り、村民を入浴させていた例もあります。
岩風呂の他に「釜風呂」があります。岩風呂がウェットサウナであるのに対し、釜風呂はより発汗効果の大きいドライサウナです。これは、炭焼きや陶器作りの後の余熱を利用したことから始まったとされますが、これも大陸から伝わったと見る方が自然です。
岩風呂や釜風呂、蒸し風呂は大きな寺院に設置される例も多く、東大寺の大湯屋、法隆寺などの「温室」(蒸し風呂)が有名で、僧侶だけでなく、一般庶民にも解放されていました。先に述べた重源上人は風呂の改良に熱心で、岩風呂だけでなく、蒸し風呂に使う湯を直接浴槽に入れて浸る入浴スタイルも考案しています。また、湯が冷えるのを防ぐために燃焼釜の煙道を加熱に利用することも考え、これが後世改良され「長州風呂」として広く普及しました。
風呂のことを関東では「風呂」と呼び、関西では「湯」「湯殿」と呼びます。いずれも温かい湯を浴びる「温浴」を指していますが、温浴が広く行われるようになったのは江戸中期以降です。
仏教伝来以降、修行で山に入った僧たちが温泉の効果を知る地元民に勧められ、その効果を知り、病苦に悩む庶民を救済するため積極的に温泉の発見に努めたこともあり、日本各地に多くの温泉があります。したがって、入浴のスタイルも施療目的であったため、麻の帷子(浴衣のようなもの)を着たまま入浴していましたが、江戸中期以降になると施療から身体の清潔が目的に変わり、今日のように裸体で入浴するようになりました。
さて、風呂のお湯を溜める浴槽を「湯船」と呼ぶこともあります。なぜここに「船」なる文字があるかというと、江戸時代には「湯船」という船があり、運河や川べりに船を停泊させ、庶民を入浴させる商売があったからです。初めは、タライを船に積んだ行水船でしたが、次第に大掛かりになり屋形船のような「湯船」も出現しました。江戸市中の運河をめぐる「湯船」は一般銭湯よりも安価であったため、大人気を博し、「湯船」が廃れたのちも、浴槽のことを湯船と呼ぶ習慣が残ったのです。
(建築家・中村義平二)